理学ってなんだろう?
まずはじめに、この記事を書いているのは学位取り立てペーペー理学部生物系ポスドクであるということを断っておきます。この記事では、理学部で過ごして10余年が経過したつなぽんが、自分の「理学」に対する思いをぶちまける、そういう内容になっています。
私が学位をとったのはつい最近の話だ。わたしがとった学位は博士(理学)で、英語で言うならばPhD。Philosophiae Doctor。哲学博士。
日本において博士号の価値がどんなに低かろうと、理学博士であることは私の誇りだ。
私は理学、大好きだからね。
理学とは何者か。そして何のために存在しているのか
この問いに答えるのは、
「医学部って何か」「薬学部って何か」「工学部って何か」という問に応えるよりも遥かに難しい。
なぜなら理学という学問は社会への成果の還元を主たる目的にしていない。
理学がどう人の役に立つか?という問題はナンセンスだ。
PhDという言葉にも現れているように、理学者というのは広義の哲学者なのだ。
「世界とは何か?」
「我々は何者か?」
「私たちは何のために生まれたのか?」
理学は、この疑問に答えるためにある。
数学科も、天文学科も、物理学科も化学科も、そして私の居る生物学科も。
何のために学問するかと聞かれたら、「世界とは何かを知るため」。
それが理学者として答えるべき一つの回答だと思っている。
理学部に存在する学科達
数ある理学部の学科の中で、生物学は少し特殊だと思っている。
それは、他学科が「世界とは何か」の答えを外に求めるのに対して、
生物学科はその回答を内に求めていると感じるからだ。
少なくとも私はそうだ。
「数」は、世界で生じる様々な現象を最も誤解なく、効率よく表すことができる世界の共通語。「数学科」は、世界の普遍の共通言語を分析することで、「世界」を理解しようとする。
「宇宙」は私達の棲家。そして今現在、私達が認識しうる「世界」の全て。「天文学科」は最先端の技術を駆使し、宇宙の仕組みと成り立ち、更には宇宙の外をも研究対象とすることで、「世界」を理解しようとする。
「分子」は世界を形作る基本単位。世界に様々な形で存在し、世界を形作る。「化学科」は、分子の特性を研究し理解することで、「分子」の単位で「世界」を理解しようとする。
「物理法則」は世界の揺るがぬ普遍の法則。「物理学科」は世界のあらゆる現象を「数」の言葉で表すことで、世界を理解しようとする。
私は全ての学問に通じているわけじゃないから、もしかしたら誤解している部分もあるかもしれないけど、私が他の理学部の学科さんに対して持っているイメージは概ねこんな感じ。
理学としての生物学と、私がそれをやる理由
上に挙げた4つの例は、いずれも「世界に存在するものの普遍的な現象」を学問の対象にしている。一方生物学は?世界の中でも大部分を占める「無生物」を一切無視して、地球という、宇宙の中でも限られた場所にしかない「生物」のみを研究対象にする、まぁ言うならば、理学の中でもややスケールの小さい学問。。。のように見える。
残念ながら。
でも、見方を変えれば、やはり「生物学」も、「世界」に挑む素晴らしい学問なのだ。
「世界とはなにか?」と考えた時に、多くの人が宇宙を思い浮かべる。それは間違いではないと思う。
でも、「宇宙が世界だ」と私達はどうやって認識したのだろうか?
あるいは私たちは分子の存在を、様々な物理法則を、どうやって認識したのだろうか?
私は、(あくまで私の個人的見解だ)
「世界」とは、私が見た、触れた、聞いた、五感で感じ、我々の神経回路で認識されたものこそが、「世界とはなにか」の一つの解になっていると思っている。
つまり、「世界」は私の中にある、神経系の活動で表されると。
「私とはなにか」ー「私とは私の思考であり、私の神経活動である」
「世界とはなにか」ー「世界とは私の五感で認識できる対象の全てであり、やはり私の神経活動である」
(私は神経を持つ生物を扱っているのでこういう結論に至ったが、神経を持たない生物でも同じことだ。生物の種類だけ、いや、個体の数だけ世界がある。その膨大な数の世界を理解するのが生物学だと思っている。なんてロマンチックな学問だろう?)
理学を学ぶ学生と、、、自分へのメッセージ
私は「自分が何者か」を知りたくて、研究をしてきたと思っているし、
これからもそう有りたいと思っている。
私の中に存在し続けるこの疑問は、これまで、科学のラビリンスに迷い込んで遭難しそうになった私を度々導いてくれた。
理学は人の役に立たない。
これは時に、研究者の精神を削り取るナイフになる。
「この研究、何の役に立つんだよ。全然意味ないよ」
って思う時がやってくるかもしれない。私も苦しんだことがある。
そんな時に、「自分は何のために理学を学問するのか」という答えを自分が持っていることは、きっと力になると思う。
このエントリーでは私なりの、理学・生物学の捉え方を書いた。
私の意見をシェアしろとは言わない。
私の意見は独特かもしれないから。
でも、研究にしっかり向き合うときに、何か一つ、自分なりの答えを用意しておくと良いと思う、「自分はなぜ理学をやるのか?」
それがひよっこポスドクからのアドバイスだ。
あと、これは同時に、未来の自分自身へのアドバイスでもある。
私は理学がやりたかった。でも、私が今書いている様々な申請書の内容は、もはや理学ではない。「生物に内包された宇宙を理解するための研究」それではお金は落ちないのだ。少なくとも生物分野ではね。
「ヒトの疾患を治すのに役立てるように研究します」という「嘘」に、いつか自分が取り込まれるのでは無いかと、私は怖くなったので。
それで、このエントリーを書いた。ちょっと恥ずかしかったけれど。
いつか私がまた遭難した時に、このエントリーは私を導いてくれるだろうか?
いつやめたって良いんだ、理学なんて
最後にもう一つ。理学の研究者なんて、しがみついてまでやるような仕事じゃない。
人の役になんて立たないんだから。
理学の向こうには、難病の治療法を待っている患者さんなんて存在しない。
それを解決するのは私達の学問とは別物であるべきだ。
それに、「自分にしかできない研究」なんて存在しない。研究を進めるのは研究者個人じゃなくて時代だ。自分がやめても、必ずその穴はいつか誰かが埋めてくれる。
一人の研究者にできることなんて、時計の針を少し早く進める、それくらいだ。
だから、楽しくできる範囲で気楽にやればいいのだ。
私は、いつか「理学部」にいながら「医学、薬学」しかできないような時代になったら、潔く職業としての研究者を引退するかもしれない。
そのほうが自分らしいだろう、そう思っている。
終わり。